私の名前『誠』(マコト)です。
誠といえば,新撰組の隊旗ですよね!!私は,歴史がかなり好きでイイモノかワルモノか人それぞれ意見はありますが特に『新撰組』が好きです。
こんにちは誠(マツモトマコト)です。
今回は,防犯対策や最近の話題やニュースとは全く別物ですが昔の警察第1弾幕末の警察部隊『新撰組』について綴っていきます。
新撰組とは?結成されたきっかけ

新撰組とは江戸時代の終わり頃の幕末に,近藤勇局長,鬼の副長土方歳三が率いた反幕府勢力を取締る警察活動に従事した京都守護職会津藩直轄の武装組織です。
近いもので言えば今の警察組織の中の公安警察です。
まぁ今の警察はバンバン人を切らないですが・・。そうなれば犯罪者は減るだろうけど警察の中に勘違いする輩が出てきて次はそちらがヤバくなりそうですね。
新撰組が結成されたきっかけは,京都で反幕府勢力が拡大し,幕府を倒そうとする藩や浪人が増えたことから将軍を警護する目的で結成された治安部隊です。
将軍を守ることが目的ですのでもちろん強くなければなりません。幕府が強い剣豪などを募集した結果,有名な近藤勇や土方歳三、沖田総司などといった剣豪が集まったのです。
新撰組の有名隊士
幕末の京都で恐れられた新撰組にはどんな隊士がいたでしょうか。有名な隊士を紹介します。
近藤勇(こんどういさみ)

新撰組のトップである局長を務めました。生まれは現在の東京都調布市で,農家出身で子供の頃から武士に憧れていて,天然理心流という古武道の流派を極めます。そして14代将軍徳川家茂の警護部隊として浪士組(後の新撰組)の募集に応募し,参加します。
後に新撰組の局長となり幕臣となり最後は,新政府に処刑され35歳でこの世を去りました。
近藤勇は武士として切腹したかったそうですが幕臣という大出世したにも関わらず農民出身ということで,武士として認めてもらえず処刑されてしまいました。
土方歳三(ひじかたとしぞう)

新撰組のナンバー2である副長を務めました。隊では『鬼の副長』と呼ばれる厳しい幹部でありました。ちなみに私が新撰組で1番好きな隊士です。
土方歳三は現在の東京都日野市で実家は大きな農家で裕福な家庭で育ちました。剣の実力は天然理心流で鍛え,特に路上での実戦はかなり強かったと言われています。
土方は局中法度(昭和以降の呼び名,当時は禁令と呼ばれていた可能性大)という新撰組隊内のルールには非常に厳しくそれを破る者には幹部であろうと容赦なく死罪にするという徹底ぶりだったそうです。実際,大幹部の総長山南敬助も切腹になっています。
土方は自らが悪役をかってで,隊の引き締めを行っていました。新撰組のトップ近藤勇が鬼になれば隊自体が萎縮してしまい,隊を嫌いになってしまう隊士が増えるという理由です。自らが悪役になることってなかなか難しいですよね。
最後は,北海道の函館市で五稜郭の戦い(函館戦争)で陸軍奉行並という大幹部として戦いましたが新政府軍の銃弾に倒れ35歳という若さで亡くなりました。

沖田総司(おきたそうじ)

沖田総司は新撰組一番隊組長で現在の東京都港区出身で新撰組の初期のメンバー,近藤勇や土方歳三と共に天然理心流の使い手で塾頭を務めておりその他,北辰一刀流の免許皆伝も取得していたと言われています。
沖田と言えば,新撰組の中でもトップクラスの剣の使い手であり,大正時代まで生き残った新撰組メンバーの永倉新八から『猛者の剣』と言われていました。土方歳三や井上源三郎,山南敬助らも稽古では子供扱いだったとされています。とにかくめちゃくちゃ強かったらしいです。
最後は肺結核にかかってしまい第一線から離れ療養するも病死してしまいます。生まれた年が明確でない為,正確な年齢は分かりませんが24歳か25歳か27歳のどれかです。近藤勇が処刑された2ヶ月後のことで,慕っていた近藤の死を知らずに亡くなったと言われています。
斎藤一(さいとうはじめ)

斎藤一は新撰組の三番隊組長務め,隊の撃剣師範という剣の先生も務めていました。剣の実力は沖田総司に匹敵し,永倉新八からは『無敵の剣』と言われていました。
斎藤について謎な部分が多いですがスパイとして活躍した説が多いです。実際,長州藩のスパイであったとされる隊員の数名を暗殺したされるほか,伊東甲子太郎(いとうかしたろう)が隊を離脱し,御陵衛士という組織を結成した際も斎藤は伊藤と共に御陵衛士に参加し,スパイ活動をし,後に伊藤らを新撰組に暗殺させたとされています。この後に新撰組に戻っています。
斎藤は戊辰戦争でも生き残り,後に新政府軍の警察組織(警視庁)に参加し,西南戦争にも明治政府側で戦っています。最後は警部で退職していますので幹部は幹部ですが思ったより出世しなかったんだなと感じました。今と昔では立場は違うかもしれませんが。
晩年は,学校で剣術を教えたりしていたみたいで大正4年72歳の時に胃潰瘍で亡くなりました。
芹沢鴨(せりざわかも)

芹沢鴨は新撰組の初代局長で過去には水戸藩の尊王攘夷派天狗党に参加していたとされています。
芹沢は,大阪力士乱闘事件で力士を斬り殺したり,大和屋襲撃事件では,金策に非協力だった生糸商大和屋を放火したりと,非常に乱暴者で素行が悪かったと言われていますが一方で新撰組が宿舎として使用していた八木邸では,八木邸の子供達に絵を描いてあげたり,八木邸で葬式があった場合は受付を引き受けたりとそういった一面もあります。
どちらかと言えば印象が悪い人物ですが近藤派が実権を握ったので勝てば官軍ですから良い情報は残りにくいので実際のところは分からないですね。
最後は,酔っ払ったところを土方歳三や沖田総司に暗殺され亡くなりました。
他にも永倉新八や山南敬助,相楽左之助などがいますが今回は有名どころのこの5名を簡単に紹介しました。
新撰組年表
新撰組年表
1834年 | 局長,近藤勇が武蔵国多摩郡(東京都調布市)で生誕 |
1835年 | 副長,土方歳三が武蔵国多摩郡(東京都日野市)で生誕 |
1863年 | 京都にて将軍警護の『浪士組』(後の新撰組)に参加 |
1863年8月 | 会津藩などが長州藩を京都から追放した『八十八の政変』を手伝いその功績として『新撰組』の名前を授かる |
1863年9月 | 土方歳三らが芹沢鴨を暗殺 |
1864年6月 | 池田屋事件,池田屋で密会している尊王攘夷浪士多数を暗殺 |
1864年7月 | 禁門の変,幕府と長州藩の戦闘に新撰組も加わり活躍 |
1865年 | 山南敬助が新撰組を脱走するも捕らえられ切腹 |
1867年3月 | 伊藤甲子太郎が新撰組から離脱し,御陵衛士を結成 |
1867年6月 | 新撰組が幕府の直参となる |
1867年11月 | 伊藤甲子太郎が新撰組により暗殺 |
1867年12月 | 王政復古の大号令で将軍職廃止 |
1868年4月 | 近藤勇が新政府軍に投降するも斬首刑にされる |
1868年6月 | 沖田総司が肺結核により病死 |
1869年5月 | 土方歳三,函館にて戦死 |
新撰組が一躍有名になった事件『池田屋事件』
新撰組といえば1864年6月に起きた池田屋事件といっても過言ではないです。
池田屋事件の約1年前に起きた八月十八日の政変で京都を追われた長州藩の藩士ら尊王攘夷派の志士が御所に火を放ち,一橋慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)や松平容保(会津藩大名)らを暗殺して,孝明天皇を長州に連れて行く計画を企てます。
この計画を知った新撰組が,その会合が行われるという情報を仕入れ,新撰組は近藤隊と土方隊に別れその場所を探索し,6月5日午後10時頃に近藤隊が京都の旅館・池田屋で尊王攘夷派約30名を発見しました。
ここからが戦闘です。
30名程の志士に対して近藤隊は近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で切り込み奮闘するも,沖田,藤堂の2名が離脱,2人対数十名という圧倒的不利な状況でありながら,狭い旅館内を利用し,土方隊の応援部隊を待ちました。
土方隊が到着し,戦局は逆転,志士9名を打ち取り,4名を捕縛しました。戦闘後に会津藩や桑名藩が新撰組の応援に駆けつけるも土方は手柄を横取りされないように池田屋に一歩も近づけなかったと言われています。
この池田屋事件がきっかけで天下に新撰組の名を轟かせ,新撰組が一躍有名となりました。
そりゃ天皇陛下や大名の危機を未然に防いだのだから当然ですね。
元スマップの香取慎吾さんが主演の大河ドラマ新撰組を1度見て下さい。鳥肌立つぐらい格好良いですから。
まとめ

今回は幕末の警察部隊である新撰組について記載しました。
学生の頃なんかは全く歴史なんて興味なかったのですが,文章力を勉強するため,ある時,司馬遼太郎さんの燃えよ剣を読んだことがきっかけで歴史にハマり特に新撰組が大好きになりました。今では小学生の長男にまで影響し,私よりも詳しくなってきてます。
余談ですか警察の巡査部長昇任試験の面接の時,燃えよ剣で読んだ土方歳三の組織論を語って途中で話止められた記憶が蘇りました。昇任できましたが。
歴史を学ぶことは,『過去の過ちを繰り返さない為』とかよく言われますが私はそんな難しいことは考えていません。歴史を学ぶことはただ単に面白いからです。多少,創作の部分はあるかもしれませんが物語が過去に起こった事実なんですよ。
日本の超大企業の三菱は元をたどれば坂本龍馬なんですよ。
知ってる人はたくさんいると思いますがこれだけで三菱グループの見る目変わりませんか??
歴史嫌いの人は一度いいからドラゴンボールやワンピースだと思って,歴史小説を読んで見てください。司馬遼太郎さんの燃えよ剣がお勧めです。
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