【日本警察の父,川路利良】世界に比べ治安の良い日本があるのは川路大警視のおかげ。

最近,仕事が忙しすぎて休みなし,帰宅は11時過ぎと,ブログを書く時間がなかなかとれません。毎日ヘトヘトです。一度いいから定時で帰りたい。松本誠です。

以前に幕末の警察組織『新撰組』を記載しましたが,今回は今の警察組織の基礎を作った薩摩藩出身の川路利良について書いていきたいと思います。

川路利良は,少し歴史に興味があったり,歴史が好きな人,警察官は知っている存在だと思いますが世間一般では知らない人も多いかもしれません。

川路大警視の経歴

今でも警視庁警察学校の敷地や鹿児島市に偉人として像が立っている川路大警視,初代警視総監で陸軍少将です。そんな偉人は生まれた頃からエリートだったのか?今の日本警察の基礎を作った川路大警視の経歴はどうだったのでしょうか?

川路大警視は鹿児島県出身

川路利良は,1834年薩摩藩の下級武士で準士分という身分の家に生まれます。薩摩藩は上士と郷士と武士の間でも身分の格差がありましたが準士分とは,郷士よりも下級の身分です。
川路家は薩摩藩与力という立場で,その頃から警察活動に従事していましたので警察に全く関係なかったわけではなさそうです。

川路は,低い身分でありながらも漢学などの学問,真影流剣術を日々鍛錬し,努力家でありました。そんな中,時代は薩摩藩を含む全国は、幕末の動乱へと流れていきます。

禁門の変で活躍,そして大出世

1864年川路は31歳の時,幕府軍と長州藩の戦争である禁門の変(蛤御門の変)に薩摩藩から参加します。川路は狙撃で,長州藩の豪傑,来島又兵衛を狙撃し,自害に追い込みます。その功績から,薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通に高く評価され,藩の部隊の小隊長に任命されます。そこから西洋兵学を勉強し,禁門の変からたった4年後に大隊長に任命されます。
幕末の激動期とはいえ,一兵隊からたったの4年間で大隊長になるってことは,川路大警視はとても優秀な人物であったことが分かります。

その後は,薩摩藩の大隊長として彰義隊で有名な上野戦争,東北では会津戦争に参加し,大活躍します。そのことで藩に更に認められ,藩の兵器奉行に就きます。

ヨーロッパ視察,警察制度の確立,そして初代大警視に就任

川路は,戊辰戦争後,邏卒総長に就任しました。邏卒とは,明治初期の警察官のことで,そのトップです。

国際社会の仲間入りする為には,警察組織の立ち上げが必要と感じた政府は,西欧に視察団を派遣し,その中に川路も入りました。ヨーロッパの警察を視察し,調査を行いました。その中でも当時のフランスの警察大臣で『近代警察の父』であるジョセフ・フーシェに感銘を受け,日本警察はフランスの警察制度を元に作られていきます

帰国した川路は早速,日本の近代警察の立ち上げに奔走します。

当時の警察官は,川路の意向によりほとんどが武士出身の者で形成されます。川路は『武士以外を登用するのは失策』とまで言っておりました。
そんなことから,幕末では敵だった新撰組の幹部『斎藤一』や会津藩出身の佐川官兵衛をも警察官に取り入れます。
江戸が終わり明治になったとは言え,敵味方関係なく優秀な人材を登用したことはすごい改革です。

そして1974年(明治7年)川路利良は,初代大警視(警視総監)に就任します。当時,40歳です。40歳で大警視って現代ではあり得ないスピード出世ですね。

西郷隆盛との別れ,西南戦争へ

川路が近代警察制度の確立に奔走していた頃,自らを明治政府に抜擢した西郷隆盛が,政府との考えの違いから官職を捨て鹿児島へ帰ってしまいます。
旧薩摩藩士から絶大な人気であった西郷隆盛を追って,多くの薩摩藩士らが鹿児島へ帰ります。そんな中,川路は警察制度の確立の真っ最中であり,今後日本を近代化する為に鹿児島へは帰らず警察制度の確立に努めることを表明し,明治政府に残ることになります。

カリスマ的存在,西郷隆盛を裏切ったとされ,鹿児島県ではつい最近まで,川路大警視は不人気だったとされています。でも,この時,川路が警察を放棄して鹿児島に帰っていたら明治時代は犯罪の無法地帯,江戸時代の奉行所に逆戻りになっていたことでしょう。

西郷が鹿児島へ帰り,しばらくして明治政府と旧薩摩藩士との戦,西南戦争が勃発します。
警視庁からも明治政府側の部隊として警視隊が結成されます。
川路は,別働第3旅団長として,警視隊4759名を率いて西南戦争へ参加します。

警視隊には,元新撰組三番隊組長斎藤一(藤田五郎警部補)や新撰組一番隊組長沖田総司の甥,沖田芳次郎巡査,元白虎隊メンバーなど数々の剣豪が所属していました。

警視隊の中の一部の部隊から剣術に優れた者を選抜して有名な『抜刀隊』が形成され,大活躍します。ただ,時代は既に鉄砲などの飛び道具の時代に入ってきていましたので全滅した部隊も少なくなかったとされています。

補足
抜刀隊の活躍により,明治維新ご廃止されていた剣術や日本刀の価値が見直され,警察剣道が取り入れられたとされています。

その後,警視隊は西郷軍を退け進軍を続けるも川路は,旅団長の任務を解かれ,東京へ帰り,引き続き警察に献身します。

46歳の若さで死去

1879年(明治12年)1月,再度ヨーロッパの警察を視察する為,船に乗ります。しかし船の中で病気になってしまい,パリに到着するも病床につきます。
病状が回復せず,同年8月に日本に帰国するも,帰国して5日後の10月13日に46歳の若さで息をひきとります。

実際のところは分かりませんが,当時関西の政商であった藤田組が汚職の捜査を免れる為,川路を毒殺したという噂が立っていたそうです。

川路利良大警視の年表

川路大警視の生涯を年表にて分かりやすくしてみました。

1834年6月17日(天保5年) 川路利愛の長男として鹿児島県鹿児島市にて生まれる
1864年(元治元年) 禁門の変で長州藩来島又兵衛を狙撃し,死に追い込む
1867年(慶応3年) 薩摩藩御兵具一番小隊長に任命される
1868年(慶応4年) 鳥羽伏見の戦いに薩摩官軍大隊長として出征
1869年(明治2年) 戦功が評価され,藩の兵器奉行に昇進
1871年(明治4年) 西郷隆盛の招きで東京へ,邏卒総長となる
1873年(明治6年) 西南戦争へ旅団長(陸軍少将)として参加
1874年(明治7年) 初代大警視(現警視総監)に就任
1879年(明治12年)1月 再度,西欧視察の為にヨーロッパへ向かう
1879年(明治12年)10月13日 病状は回復せず,46歳で死去

 

川路大警視の逸話

初代警視総監川路利良には,有名なおもしろ?エピソードが2つあります。少し下品なエピソードですが紹介したいと思います。

戊辰戦争で示した肝が座っている川路

戊辰戦争の銃撃戦の出来事です。敵兵が放った銃弾が川路の金◯袋を貫通するも精巣は無事でした。
男なら分かると思いますが,怖かったり,寒かったりすると袋は縮みますよね。それが戦場という生死を分ける場所で袋が垂れ下がっていたので貫通し,無事であったと薩摩藩内で有名になります。
薩摩藩兵から『川路のキ◯タマ』と讃えられたそうです。

もしかしたら本当はこの出来事で有名になり西郷や大久保に目にとまったのかもしれませんね。

お洒落な国フランスで大便を投げる

初めての視察でフランスに行った際,パリに向かう途中の列車内で,川路に腹痛が襲います。海外なのでもちろん言葉も通じず,トイレの場所が分かりません。
川路は我慢できず,持っていた新聞に大便をします。
もちろん臭いはずですし,川路は新聞に包んだ大便を列車の窓から外に投げ捨てます。
それが運悪く線路の整備をしていた保線夫に直撃します。

怒った保線夫は,その大便を警察に持ち込み,その時の地元新聞に『日本人が大便を投げ捨てた』と大問題になってしまいます。

当たった保線夫は気の毒すぎますね。他人の汚物が自分の体に直撃すると考えたら,そりゃ保線夫は大激怒しますわ。

川路利良の評価

鹿児島県では西郷隆盛はスーパーヒーローです。
数多くの薩摩藩士は,新政府を捨て西郷に付き鹿児島へ帰郷しましたが川路は私情を堪え新政府,警察に尽くしました。川路は長い間,『大恩人である西郷を裏切った男』として嫌われ者として扱われていました

しかし,川路のやったことは偉大で,近代国家としての警察を創設,治安の良い国であるのは川路のおかげということが浸透し,今ではその悪い評価も少なくなり,警視庁だけでなく鹿児島市にも川路大警視の銅像が設立され,多くの人から評価されています。

ちなみに鹿児島県警の本部長は警視監です。警視庁を除く大都市都道府県警の本部長と同じ階級なのですがこれは川路大警視出身という理由があるのかもしれません。

まとめ

明治から現代までまだ150年しか経っていません。世界は急成長し,色々なことが発展している中,日本は鎖国していたこともあり,時代の進化に取り残されていました。

日本が急成長できた一つの理由に間違いなく川路大警視が作った警察が含まれています。
世界から認めてもらえるのは自分の国や国民の管理もしっかりできていなければ認められません。
江戸時代のままの奉行所レベルの警察組織では確実に世界に認めてもらえることはなく,そもそも治安が悪いところには外国から人が日本を訪れないですし。

こうして現代の恵まれた環境『日本』で暮らせるのも川路大警視が最後まで警察に奉仕したのも一つの理由かもしれませんね。
昔の人の行動,活躍が今の世の中に繋がっていることを改めて知ると川路大警視などの『偉人』にすごい感謝の気持ちが湧いてきます。

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